黙然日記(廃墟)

はてなダイアリー・黙然日記のミラーです。更新はありません。

素人が「批判」するコミケ。

 http://d.hatena.ne.jp/pr3/20070820/1187621394 で取り上げた柳生すばるとかいうアレがまたアレしているのでちょっとアレします*1。前回炎上させて懲りたかと思ったんですが、それを繰返すってことは構ってちゃんというか誘い受なんだろうから、ほんとは放置プレイがいちばんいいのですが、まあ行きがかり上。

Empire of the Sun太陽の帝国 : 暴走マンガ集団:コミケ
http://empire.cocolog-nifty.com/sun/2007/09/post_abe9.html

 呉智英氏の「コラム・断」を引用しているのですが、そもそも「呉氏のコラムを柳生が分かりやすくアレンジしました」ってのはなんだろう。かえってわかりにくくなっているのですが、というか、呉氏とてめえの文章力を比べる眼もないのかと。まさか、あのセンテンスの途中で改行する文体が優れていると思っているとか、それしか理解できないていどの知的能力しかないというわけではないだろう、と思いたいのですが。該当の「コラム・断」は名作なので、できれば先に読んで、柳生の「わかりやすいアレンジ」と比較してみてください。

【コラム・断】難読名と偏差値-イザ!
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/dan/81222/

 で、柳生はこのコラムを前フリにコミケ批判を蒸し返そうとするのですが、どういう繋がりなのかまったくわかりません。呉智英氏がマンガ評論の先駆者の一人であり、コミックマーケット前代表の米澤嘉博氏とも交遊が深く、米澤氏追悼のトークライブにも参加されるほどの関係である*2ことなど、おそらく知らないのでしょう。いや、呉氏と米澤氏の関係を別にしても、柳生の文章の中でコラムの引用と本文での批判がまったく一致していないのですが。あえて物凄く好意的かつ強引に繋がりを推理するなら「俺様化」というキーワードでしょうが、呉氏が書いた「実績の伴わない俺様化」は、コミケには当てはまらないでしょう。柳生の脳内コミケではどうだか知りませんが。


 本文の、まず前半について。「十万人の釣り大会は趣味の域を超えて運営そのものが目的化する」という批判は、一面では当たっているかもしれません。しかし、趣味の域を超えたからといって、イコール公的な存在になるわけではありません。十万人の大会でも、有料のカタログや通行証を所持しているかを入場時にチェックしクローズドに運営することは、原理的には可能です。実際に十二年ほど前までは、十万人に対して入場チェックを行っていました。現在のコミケでは、いろいろな理由から入場無料という形式にはなっていますが、本来は“自覚を持った参加者”だけによるクローズドサークルなのです。
 クローズドであろうと公的であろうと、大会である以上運営上のルールがあり、それを守らない人間が相手にされないのは、当たり前の話です。ルールを守らず排除された人間に限って、「運営者が教条主義で硬直的で……」という批判をしたがるのですが、コミケほどオープンなクローズドサークルはありません。ルールを守るという自覚を持ってその場にいれば、誰でも“参加者”になれるのですから。だからこそ、ルールを守らずにその場にいる人間、ルールを知ろうともせずに“参加者”になりたがる人間に対しては、厳しい姿勢を示すのです。


 本文後半で柳生は、「マンガはわかりやすく伝えるものだから、マンガに関わる者が意志を伝えられないのは手抜きだ」といった批判を繰り広げています。なんかまともに相手をするのも嫌になるのですが、世の中にはハウツーものと広報パンフと『ゴー宣』と『マンガ嫌韓流』以外にもマンガ作品はあるのだ、ということを、まず説明しなければならないのでしょうか。たとえば、マンガ史上に残る大傑作で呉氏も絶賛している『ねじ式』(つげ義春)がなにを伝えたいのか、いったい誰がわかるのでしょうか。呉氏も米澤氏も、つげ氏自身にさえ、あの作品がなにを伝えたいのかわからないのです。それは『ドラゴンボール』でも『ワンピース』でも本質的には同じことで、だからこそ我々はマンガを批評し、マンガを創作するのです。
 そもそも、もっとも基本的な資料である「コミックマーケットカタログ」巻頭文さえ読んでいない人間がコミケを語ろうとすること自体、マンガ作品を読まないでマンガを批評しようとするのと同じぐらいの馬鹿げた行為なのですが、柳生すばるにそうした自覚はあるんでしょうか。現地に出かけて「こういうものを見た」「こういう話をした」というレポートを書くだけならまだいいのですが、なぜ調べる努力もせずに全体を批判しようとするのでしょうか。頭が悪いからだ、と、言ってしまえばそれまでなのですが……。

追記。

 ちょっと書き足りない部分があったので。わたしの文章力もこの程度ではあります。
 「十万人の釣り大会は趣味の域を超える」の部分ですが、そこにいるのは“十万分の一”ではなく、一人ひとりの個人が足し算された結果の十万人という数です。釣り大会であるなら、十万の個人はみんな釣りを楽しんでいるのでしょう。そこに「大会の運営」という目的がかぶさるだけであって、個人が趣味を楽しんでいることを否定する理由にはなりません。趣味を楽しんでいるのでなければ、集まった個人は、いったいなにをしていると思うのでしょうか。規律に従うことだけが目的で、十万人が集まると思いますか? 
 そして、大会を運営するために必要なのは、一人ひとりがルールを守ることだけです。また、それだけでうまくいくようにルールが定められてもいるわけです。ルールを要約すれば「他人に迷惑をかけない」というだけです(ただ、「なにが迷惑なのか」を本人は気付きにくいため、具体例を挙げたべからず集になってしまうわけですが)。全員がそれを守れば、全員がその結果を享受できることになります。上述の“自覚を持った参加者”とはそういう意味です。全体と個人がうまく関係を作って、はじめて巨大なコミケが見事に運営される――そしてこれは、コミケだけの話ではありません。
 柳生の論理のおかしさだけを指摘するのが目的で、思想面にあまり踏み込むつもりはないのですが、全体と個人、公と私の関係を、全体や公の側に寄って語りたがる人が、こうした基本的な認識もできていないことには、改めて驚いてしまいます。

*1:via vanacoralの日記 - 「自分の論理だけで行動する排他的な」柳生すばる http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20070901

*2:コミックマーケット72カタログ」p.1329〜