黙然日記(廃墟)

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被曝と差別問題への返答。

放射能を忌避し、被曝を恐れることに誰が「差別」のレッテルを張るのか - Verda Majo 緑の五月通信
http://d.hatena.ne.jp/takamm/20110925/1316958376

 22日付拙ブログエントリ*1に、takammさんからコメントをいただきました。わたしは阿呆なので間違えて23日付エントリに誤った内容の返答をしてしまったのですが(もうしわけありません)、takammさんからは丁寧な内容のご返答をいただいた上、ご自身の上記のエントリにて議論を紹介していただきました。以後はエントリの形で返信することにいたします。
 さて。議論に例示を持ち込むと、その例に足をとられてあらぬ方向に進んでしまいがちです。ですから例示は避けるに越したことはないのですが、必要な場合もあると信じます(さもなければ、「例示」という日本語自体が存在しなかったはずです)。なのに、「たとえば〜という例がある」と書いただけで、「言ってもいないことを持ち出すな」とされたのでは、(個人的には)議論の進めようがありません。この点についてできるだけフェアにやろうとするとなにも言えなくて、今も立往生しているところです。

 また、「こっち側」と「あっち側」の概念については元エントリで肴にしていた「産経抄」からの引用であることは明示しておきます。わたしはこのブログで、≪≫という記号を引用記号として使っているので、該当エントリの≪こっち側≫≪あっち側≫はすべて引用のつもりでした。この点、いまさらですがお断りしておきます。「あっち側」と「こっち側」を区別する人々、言い換えれば「被爆した地方」と「被爆していない地方」の区別をし、安全地帯から傲慢な物言いをする人々には、北関東在住でどちらかといえば「あっち側」の住人として、憤りを感じています。いやどこに住んでいても、同じ日本人、同じ人間に向けられるその視線に対して、憤らざるを得ません。
 被曝を避けたい。それは人間として素朴な感情でしょうが、こちらはすでに被曝しているのです。また「ケガレ」を避けたいというのも原日本人として素朴な感情であるでしょう。そして放射能が「ケガレ」になっていることは、拙ブログ id:pr3:20110421:1303346935 で指摘しました。
 花火による被爆を避けたい。それは結構です。ではその環境に与える影響は何マイクロシーベルトで、花火工場には何ミリシーベルトの汚染があるのでしょうか。実際に人間が住んで働いている場所の話です。おそらく、「そこまで考えていない」というのが正直な答えでしょう。それを責めようとは思いません。また、それが直接的な差別であるかといえば、そうではないかもしれません。おおらかに取れば、それを「差別である」と指摘するのは極論なのかもしれません。しかし、「そこまで考えない」ままケガレを忌避する感情こそが、差別の根源であることは、強く指摘しなければならないのです。
 「我が家を1マイクロシーベルトたりとも被曝させない」と決意するのは正しいことですが、それは他人の感情を踏みにじってまで貫くべきことなのでしょうか。
 例示を封じられてしまったので、以下は無関係な話です。部落差別にしろ民族差別にしろ、する側は「なんとなく」であることが多いものです。ネトウヨヘイトスピーチは、足りない頭で考えた上で馬鹿な結論を出しているからまだいいのですが、それに「なんとなく」同調するマジョリティのほうが、本当は恐ろしいと感じます。

*1: id:pr3:20110919:1316442404