黙然日記(廃墟)

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産経、『蟹工船』を読み解く。

【土・日曜日に書く】編集委員・福島敏雄 いま、なぜ「蟹工船」なのか - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/080628/bks0806280315000-n1.htm

 小林多喜二蟹工船』が売れている、という話題から、そのブームを批判しています。産経新聞の基本的スタンスとして、この作品のテーマである共産思想を否定しているのは、まあよろしいかと思います。
 実を言うとわたしは『蟹工船』を読んでいないし、プロレタリア文学も大嫌いです。読んでいてイライラするとかいう以前に、《創作はイデオロギーに奉仕すべし》という根幹の発想が許せないと思っています。左右どちらのイデオロギーであろうと、これは許せない発想です。さらに言えば、この一点をもってして、共産主義を全否定します。もちろんこれは、一般化して言えば、創作愛好者の立場から全体主義を全否定するということでもあります*1
 その点を含めて、『蟹工船』やプロレタリア文学に関する福島氏の分析は正しいのですが、破綻したはずのプロレタリア文学がなぜ今再び受容されているのか、この文章はまったく説明できていません。
 書かれた時代や創作の背景を理解しなければ、本当の意味では作品を理解できない、という指摘は、権威主義に陥る危険性の高いものですが、一面では正しいでしょう。しかし、たとえば福島氏は夏目漱石を例に挙げていますが、『坊っちゃん』のテーマが「近代や異文化に対応できない江戸っ子の旧風野蛮」*2だと説明されたところで、てんぷらを五杯食べたとか「菜飯は田楽のときに食うもんだ」とか野だの顔にぶつけられた生卵とか(なんか食べ物がらみのシーンばかり印象に残ってるなあ)、そういった描写の面白さに影響はありません。
 これもまた産経新聞の記者としてはいつものことなのですが、フィクションとノンフィクションの区別、それぞれの意味が、福島氏には理解できていないようです。20世紀前半の日本において労働者の苦しみを描いた文章には『日本の下層社会』『女工哀史』などの優れたノンフィクション作品がある、と指摘しています。上記の2冊はわたしも読んで、価値のある作品だと思いましたが、はっきり言ってつまんないです。統計データとアジテーションの合間に堅苦しい文章での描写があるだけで、知的興味を別にして、エンターテインメントとして読める作品ではありません。『蟹工船』を読まずに言うのもなんですが、いちおう小説としてのドラマがあり、物語の筋を追いながら主人公たちの苦境の描写を味わうことができるものだろうと思います。それを「読解できていない」と批判しても、あまり意味がありません。(おそらくは)純文学を読む訓練をしていない人々が、消え去ったはずのプロレタリア文学に惹かれるという現実こそが、この現象の要点なのです。
 『蟹工船』のイデオロギーが、人々を惹きつけているわけではないでしょう。剥き出しの資本主義が存在した時代、その現実の中から生まれた搾取される苦しみが、共産主義思想を普及させました。戦後日本の保守本流は、表面的な搾取をなくし平等化社会を作ることで資本主義の矛盾を克服し、共産主義を駆逐してきました*3。問題の根本は「共産主義思想の浸透」ではなく、「資本主義の矛盾」にあり、共産主義はその一つの回答にしか過ぎません。
 21世紀前半の現在、また資本主義の矛盾が剥き出しになっていることから『蟹工船』が受け入れられる現象が発生している。この時代背景を、福島氏は「読解」できていないのです。

*1:なのになぜ、コメント欄で書き捨てするような人たちから共産主義シンパ扱いされるのか、わけがわかりません。

*2:わりと最近にどこかで読んだ解説。漱石自身が江戸っ子であり、近代化や西洋化への懐疑を生涯のテーマにしていたとこも述べておく必要があります。

*3:これによって伝統左翼は「搾取の苦しみ」を多数の大衆に訴えることができなくなり、別のアプローチを試みるしかなくなりました。上でとぼけましたが、こうした様々な方向性を“左翼"が持ち出したことで、思想的混乱が起きている面もあると思います。これは日本に限らず世界的な傾向でもあります。