黙然日記(廃墟)

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カルト信者についての考察。

 我々は敵対する「カルト教団の信者」をついひとくくりに考えがちなのだが(そして実際、信者としての行動はまるで集合意識のように統率されているわけだが)、彼らも元々は自由意志を持った個人だったはずで、そのカルトに参加し信奉するようになったきっかけというものもあるはずだ。こういう考察はオウム真理教のときもかなりなされたはずだが、社会に対する不満というあいまいな言い方以外、あまり明確な結論は出ていないように思う。この文章で明確な結論が出るわけでもないのだが。
 たとえば純潔教育を推し進めるカルト(具体的には統一協会キリストの幕屋など)がどうやって信者を獲得しているかを考えると、まず純潔とはほど遠い社会風潮があって(たいへんよいことだ)、それに不満を抱く人たちが信者になってカルトに荷担するのだろう。ではなぜ彼らが不満を抱くのかといえば、旧時代の規範である純潔なり道徳なりという概念が、集合無意識として超自我を形成しているからだろう。えーと。批判があることを承知した上で、岸田秀の理論を引用した方が早いのでそうするが、彼らは純潔という共同幻想に頼っているのだ。
 新しい世界に裸の人間が放り出されることは、自我の崩壊を招きかねないほどの不安をもたらす。そこで人間は、なんらかの概念に価値を見いだし、それを自我の根拠とする。複数の人間が共有する根拠を、共同幻想という。場合によってはそれは新しい社会通念(ジェンダーからの自由とか)であるし、また古い通念(純潔や男女差別の肯定とか)であったりする。新しいものがすべて正しいわけではないことを前提にすれば、両者に本質的な違いはない。
 だから、総体としてはともかく、一人ひとりのカルト信者は、時流への対応に失敗したというだけの、気の毒な、たぶん同情に値する人たちなのだ。ただ、社会を構成するための最低限の共同幻想(価値観)である「他人の価値観を否定しない」という考えを放棄してしまい、まったく逆の行動をとっていることについては、それを指導したカルト上層部とともに、信者たち個人もまた、当然のこととして批判されるべきだろう。
 カルト対策としては、こうした前提をおいた上で、彼らの共同幻想を正面から否定せずに、あるていどやむを得ないものとして扱うことも必要なのではないか。もちろん、各論については正面から議論するべきではあるが。