ギャグの密度。
「ニニンがシノブ伝」を一気に読むのはしんどかったので休み休みしつつ、その合間に適当にそのへんにある本を引っ張り出して読もうとしたら、引っ張り出した本が新井理恵の「うまんが」「ろまんが」だった。これも密度が異様に高くて休み休み読みたいタイプのマンガなので、片方を1ページ読んではもう片方を1ページという塩梅。なにをやってるんだか。
新井理恵のギャグ作品は、本来は高めのテンションで一気に読ませるタイプだろうと思うのだが、膨大な量のセリフのやりとりが面白いというところもあるので読み方が難しい。最初は手書きのセリフを無視して一気に読み、二度目はゆっくりセリフの中のギャグを味わうというやり方がいいかもしれない。こうして分析すると古賀亮一と似ているのだが、実際に読んだ印象はまったく違うのでこれはどういうことなのか。
少し話はずれるのだが、先日買った「パタリロ!」*1 77巻は、ついに魔夜峰央やってしまったか、という印象だった。もともと、誰か(バンコランなり間者猫なり)が持ち込んできた事件をセリフで説明し、合間にパタリロと相談者のボケツッコミが入るという展開は多かったわけで、このやりとりは面白く読ませていたからいいようなものの、絵面でみれば小さいコマ割りで切り返しが続くだけで、マンガとしては面白くない。アングルを変えたり無意味なズームアップをしたりオフショットで別のものを描いたりという工夫をしつつ、しかしこれは絵的に手抜きをしてるだけじゃないかとも読者に思わせてしまっていた。
77巻にいたってついにそういうコンテに飽きたのか、ベタバックの大ゴマで会話だけをシナリオ形式のネームで提示するという暴挙に出たわけだが、どうなんだろうこれは。そういう展開での面白さはひとえに会話の面白さにかかっていたわけだが、会話だけ提示されるとさすがに違和感がある。
この技法をどう評価するべきか。最悪、と評することもできるだろうが一つの考えた結果ではあるだろうし、マイナスの評価になることは間違いないよな、と書こうとして、いや本質的な面白さ(会話の面白さ)は以前と同じなんだし、とも考えてしまう。どうしたものか。